小野田寛郎

大日本帝国陸軍中尉として30年間、
フィリピンのルバングでゲリラ戦を継続した、
小野田寛郎さんの人生を通し、
日本の近代史と今後を考えてみましょう

1922年3月・・・
 和歌山県海草郡にて県議員種次郎の四男として生まれる。
戦前の子供達

 なお、兄弟には陸軍士官が多いエリート家族である。

 ・長兄敏郎が、東京帝大医学部卒の軍医将校

 ・次兄格郎は、陸軍経理学校卒の経理将校

 ・弟滋郎は、陸軍士官学校に入校し兵科将校

和歌山県海草郡の眺め
1935年・・・
 旧制中学では剣道選手として活躍し、

 中学校卒業後は民間の貿易会社に就職、

 中華民国の支店に勤務し、中国語を習得した。
当時の漢口租界
1939年9月
 第二次世界大戦勃発
 (※ドイツ軍がポーランドへ侵攻して始まる)

1941年12月
 大東亜戦争開戦
 ニイタカヤマノボレ!

1942年・・・
 徴兵検査を受け陸軍軍人となり、
 従軍中に甲種幹部候補生を志願し合格、
 予備役将校となる
徴兵検査①クスグリ耐久
徴兵検査②アラいい男ね



徴兵検査③アッー!

1944年1月
 士官学校へ入校し語学能力を評価されたため、
 陸軍のエリート養成学校である中野学校へ入校する。
 主に遊撃戦の教育を受ける。
優秀な士官として教育される
1944年12月・・・
 フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、
 残置諜者および遊撃指揮の任務を受けれフィリピンに配属
 上官からの指令
 「玉砕は一切まかりならぬ。3年も5年も頑張れ。」
 「兵が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧って頑張れ」
 「重ねて言うが、玉砕は許さん。迎えに来るまで戦え」
 「日本が占領されても戦い続ける計画だ」
 母親から短刀とともに受けた言葉
 「敵の捕虜となる前に短刀で自害してださい」
 (※拷問を受ける前に自害せよという母親の愛情)
 (※この短刀は30年後に日本へ帰国して母親へ返還)

1944年12月31日・・・
 ルバング島にて耐久戦へ準備を図るも周囲の士気は低い
 ※ルバングはフィリピンの首都への航路を一望する重要地

1945年2月・・・
 準備不足の所へ米軍一個大隊が上陸し平地部を制圧される
 ★山間部に拠点を移し遊撃ゲリラ戦・情報収集を開始

1945年8月・・・
 第二次大戦・大東亜戦争が終戦
 しかし、ルバング島には報せが無い。
 ★部下とともに増援部隊のための情報収集を継続中
 部隊の構成
 【小野田少尉,島田伍長,小塚上等兵,赤津一等兵】

1945年9月
 小野田寛郎以下部隊員の戦死公報
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1946年
 フィリピンが米国の友好的な国として再独立する
 米国軍はフィリピンに駐留する形となる
 小野田は、フィリピンが米国傀儡政権となったと判断した。
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1950年
 赤津一等兵が投降し日本へ帰国
 小野田ら3名が現地で戦闘中であることが判明する
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1951年
 サンフランシスコ講和条約、安保条約調印
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1952年
 講和条約発効、主権回復
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1954年5月
 小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続
 ★フィリピン警察との戦闘で島田庄一が死亡
★島田庄一伍長が死亡
1956年
 日ソ国交回復
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1957年
 日本が国連加盟
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1958年
 当時の皇太子が婚約
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1959年
 東京オリンピック開催決定
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1960年
 皇太子夫妻に長男誕生
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1962年
 堀江謙一がヨットで太平洋横断
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1964年
 東京オリンピック開催
 新幹線開業
 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1966年
 ビートルズ来日で、日本中がビートルズブームに

 ★小野田部隊はゲリラ戦・情報収集を継続

1967年

0 件のコメント:

コメントを投稿